脳の認識のクセ~錯覚(快楽編)

僧侶の瞑想 ブログ

みなさん こんにちは お元気でお過ごしでしょうか。

今日11月23日は急に寒くなりました。昨日が二十四節気の小雪だったので、気候が変わっていると言え、このドンピシャに正直驚いています。

やはり先人の知恵は凄いの一言です。これからも色々なことに関心を持っていきたいと思います。

ともあれ、これからどんどん寒くなりますので、体調には十分に留意してください。

さて、今回は脳の認識のクセ~錯覚(快楽)について書きたいと思います。

楽しいことをしたいし、楽もしたいのが人情ですが、それら「快楽」も含めて錯覚だとしたらどうでしょうか。

私は最初、そんなことはないでしょうと信じられなかったですし、何をいっているのかよく分かりませんでした。

でもある僧侶の話を聞いて、あっなるほどそうかと理解できるようになりました。

曰く、『タイ国に修行行脚にまいりましたときのことです。わたくしは土の道をひたすら何時間も素足で歩いておりました。

最初は苦でも楽でもない、ごくありきたりな感覚が、足の裏が地面に接するたびにやってくるのが感じられ、ごくまれに、とがった石だとかを踏みつけたときに苦が感じられる程度でした。

ところが、歩行が二、三時間を過ぎたころから、道に散らばる小石を踏むたびに、痛みが次から次へと襲ってくるのが感じられるのです。一歩一歩歩きながら、踏みしめるたびに苦が生じ、その足を地面から上げると一瞬だけ「ホッ」と楽になっているのが感じられるのでした。

さらに、ダメ押しをするかのごとく、さらさらの砂地に入ったときなど、「なんと痛みの少ない優しい砂なのでしょう。」とちょっとした至福感を味わったものです。

けれども、これは思考のつくり出す詐欺。歩き始めたばかりのころに砂地に入っても、楽でも苦でもない感覚を味わうだけでしたのに、苦のゲージがたっぷり溜まったあとの場合だけ、「あー至福」と錯覚するのですから。

一回一回、そのつどそのつど、苦が減ることにより、楽の「幻覚」が生まれる瞬間を瞑想対象として真剣に観察し続ければ、「わーお、楽ってのは苦が減った時に感じられるだけの錯覚だ」ということをショックとともに実感せざるを得ません。

すなわち、楽がなくても苦は存在するものの、楽といえば、苦がなくては存在しない、ただの蜃気楼なのでした。』

以上は僧侶の小池龍之介さんのお話です。最近はよく楽しいことや、好きなことをやろーといった風潮があります。この話を聞くと「楽が欲しいよ!」という気持ちが圧倒的に薄まります。

自由に物事をやったりやらせるのは良いことですが、楽しみや好きなことばかりが行き過ぎるとデメリットもありそうです。

盲目的に楽や楽しいことを求めて苦から逃げるような心では、いざ苦境に立たされた時に、焦って浮足立った決断をしてしまいますし、あるいは少しおだてられただけで舞い上がってしまうかもしれません。

楽や苦へのこだわりが薄まりますと、揺るぎにくい「平常心」が持てそうです。

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