脳の認識のクセ~錯覚(私という幻想)

AI-機械化された人間 ブログ

皆さまこんにちは。

だいぶ暑くなってきましたが、お元気でお過ごしでしょうか。

梅雨の季節も間近ですね。まだ夏には早いというのに日本各地で30度を超える真夏日が記録されています。


熱中症に注意というニュースも耳にしますが、体調管理には気を付けたいところです。

さて今回は、脳の認識のクセ~錯覚「私という幻想」について書いていきたいと思います。

私たち人間一人一人が、「私が」という風に主語で表す「意識主体」は、私たちが通常そう感じているような「能動的な主体」ではなく、「受動的な何か」でしかないのではないかという説があります。

その説によると、「私」が「指を曲げよう」と意識するよりも、0.2秒前に、筋肉への指令、つまり脳の活動が始まっていたというのです。

「私」は、私の「司令塔」ではなく、私で起こっていることの単なる「観察者」ではないのかというお話です。

これは、慶応義塾大学の前野先生の「受動意識仮説」によるものです。

ここで、「私」とかっこでくくられた「私」は、「私の心」だと思って下さい。一方、かっこがつかないままの私は、「私の体」と「私」(=「私の心」)を合わせた全体だと思って下さい。

私=「私」+「私の体」です。

確かに呼吸をしたり、心臓を動かしたり、五感で何かを感じたりしたりすることは無意識的にやっていることで「私」=意識主体(顕在意識)が能動的にやっていることではありません。

ただ指を動かしたり、腕を上げたりすることは「私」が、やっていることにしか思えません。ところが、実はそうではないという実験結果があるのです。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット教授が行った実験で、脳の中で「指を動かせ」という信号が指の筋肉に向けて発せられた時刻と、「私」「意識主体」が「指を動かそうと思った」時刻を比べたら、前者の脳の中で「指を動かせ」信号が発せられた時刻のほうが、0.2秒、早かったそうです。

つまり、脳の中で「指を動かせ」信号が出てから、0.2秒後で、「私」(意識主体)が「指を動かそうと思った」というわけです。

この実験から普段の私たちの意識は、顕在意識よりも潜在意識のほうが圧倒的に優位に働いていることが分かります。

私たちが能動的ではなく、私が勝手に動いているのなら、受動的とはいえ、なぜ「意識主体(顕在意識)」が生まれたのでしょうか。

それは、経験を記憶していくエピソード記憶を行うために、エピソードの主体となる「私」が必要だったからだということです。

意識主体(顕在意識)は、私が勝手に動いている結果を、ただ単に観察しているにすぎないのに、「私がやったんだ」「私が感じたんだ」「私が思ったんだ」と思い込んでいるだけなのです。「私がやったんだ」「私が感じたんだ」「私が思ったんだ」というエピソードを記憶に留めるために。

これは遺伝子の継承関係にもつながっている気がします。

今回の話は、「人間は機械である」という哲学や、「五蘊無我」などの仏教の話と共通しますが、「自分がやった」と思うことを「勝手に動いていた、動かされていた」、そして「自分がやったと思わされていた」、というのが正しいというのも少し寂しい気がします。

別の見方ですが、人間関係などで嫌いな人のことは思い出したくないのに「勝手に」思い出したりしますし、これをやろーと思ってもなかなか思うようにいかないなど、「勝手に動いている」「動かされている」感は否定できないとも感じております。

また、同時にこの「機械化されている自分」「動かされている自分」を開放し、本当の自分?を取り戻すには…..との気持ちにもかられます。

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